今回は,教育理念について,もう少し掘り下げていきたいと思います。各学校としての教育目標や教育理念ですが,学校には当然,教育活動を行う複数の教師がいますよね。この教師一人一人は,全く同じ教育理念をもとに教育活動を行っているのでしょうか?
実際に,私は約20年間,小学校の教員をしてきましたが,もちろん,学校目標という大きな目標があります。例えば,「知・徳・体」などですね。さらには,校長の学校経営方針が年度初めに出され,各教師で共通理解を図ります。しかしながら,実際に各学級において,日々,教育活動を行うのはそれぞれの教師であって,全く同じ教育理念で教育活動を行うことは,現実的には不可能であることは想像できると思います。つまり,大きな教育目標としては全教師で共通理解を図るわけですが,各教師も,それぞれの教育理念をもって教育を行っているわけです。もっと言うと,法の下の教師としての理念,学校としての理念と一教師としての理念との間で葛藤を抱いている状態ともいえます。
教師の教育理念を反映する理想の子ども像と「儀式化」
みなさん,それぞれの教師像とその教師像に影響を与えた人,あるいは,ものがあると思います。いずれにしても,今,描いている理想の教師像がモデルとなるわけです。近藤氏は,教師の子どもに対する働きかけは,特定の目標に向かって子どもを方向付け,水路づけ,訓練する過程と考えることができるといっています(近藤,1986)。そして,そのことをこのような言葉で表しています。
「儀式化」
なんだか,恐ろしい言葉ですよね・・この儀式化について,もう少し詳しく説明します。まず,教師からの「儀式化」とは,教師の教育観や教育目標などを表します。例えば,「勉強ができる子ども」とかですね。教師からの「儀式化」は,子どもの間での「儀式化」につながります。これは,子ども集団内での規範や同調圧力につながります。教師が勉強ができる子をほめれば,できない子はだめだという集団内での価値観が広がります。さらに,教師からの「儀式化」は,子ども個々への「儀式化」にもつながります。例えば,勉強ができないとダメだとか,勉強ができないと叱られるとかですね。こちらは,子どもの学級適応にも影響を与えることになります。
このように, 教師の個々の教育理念は「儀式化」につながり,さらには,子どもの学級適応にも影響を与える可能性があるということですね。「儀式化」については,これ以上の内容は,専門的になるので改めて別の機会にしようと思います。
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